第6回目、「箱根ヶ崎」の3回目です。
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近くに富士山、高値、駒形などの地名があり、浅間神社など祀られていることを考え合せる時、或る時期例えば、金子十郎家忠が京都に上った帰路とか、箱根権現の修験者が諸国回遊の折とかに命名したとしたら現実味が加わると思うが………
いずれにしても、承久年間(1220年ごろ)に書かれた八雲御妙に「筥の池武蔵国」として記し、鎌倉末期の歌集夫木集に狭山池を詠んだ歌がのせられており、又鎌倉時代の銘のある板碑も発見されるところから中世には既に集落が発達していたであろうことを予測させる。
箱根ヶ崎という文字は、永禄七年(1564年)北条氏照の発した清戸三番衆状に「箱根賀崎にて相集まり……」と記されており、この頃近隣に通ずる地名となっていたことは明らかである。
箱根ヶ崎の地名については、北から南へと位置を移動しながら、そこに現れる地名の解説をとも考えたが、点というより線について関連のある地名が多いので、いくつかのセクションに分類して解説をすることにした。
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・・・次回は、この続きで「二、街道について」に入ります。
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※只今【東京瑞穂】のブログでは、東京都西多摩郡瑞穂町の瑞穂町教育委員会が昭和55年3月に発行した
「瑞穂の地名」をご紹介しています。